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2014年03月10日

バス通りを越え

近所の本屋に行こうと車に乗った極速約會
その時ふと玄関脇の自転車に目がいった。それはもう何年も放ったらかしにしている僕の自転車だった。そういえば最近すっかりと自転車に乗っていない。
天気も良かったし、たまにはいいかも……と思い車から降りた。

自転車は雨ざらしだったのであちこち錆びが浮いていた。調子はずいぶん悪そうだった。とりあえず乗ってみる。各部の動きが少々重いが走らない事は無い。僕はそのまま本屋まで向かってみる事にした。
ペダルを漕ぐたびに車輪からはキイキイと音がした。歩道にいた小学生の二人組がふざけて耳を塞ぎあった。赤信号でブレーキを掛けると甲高い音が響いた。向かいにいた女子高生がクスクスと笑った。僕は少しだけ恥ずかしくなったnu skin 如新

バス通りを越え、緩やかな上り坂に出る。その先に本屋がある。
僕は立ち漕ぎをしようと何に気なしに上体を起こした。そして坂道を一気に駆け上るべくペダルに体重をかけた。その時だった。なんとチェーンが外れてしまった。
ペダルに掛かっていた負荷が一気に消え、力の逃げ場がなくなった。あたふたとバランスを崩し、ハンドルが左右にぶれる。すぐ脇をトラックがもの凄いスピードで抜き去っていく。僕は半泣きになりながら両足を地面に擦りつけ、なんとか転倒を防いだ。
そして迫りくる後ドキを感じながら自転車を押し、とぼとぼと家に戻った。

落ち着いてからよく見るとチェーンはびろびろに伸びていた。タイヤもひびだらけだ。
考えてみたらこの自転車は僕が独身の頃に購入した物だった。それからもう十五年以上経つ。ガタがきているのも当然だった。
近所のホームセンターに行けば安くて良い自転車がたくさん売っている。買い替えの良い機会かもしれない。

妻に相談すべく家の中に入る。だがタイミングが悪い事に、妻はノートパソコンを開いて帳簿をつけている最中だった。
今は確定申告の時期である。独身時代には毎年これで頭を悩ませていた。とにかく色々ややこしいからだ。
結婚後、申告方法をさらにややこしい「青色」へと変更した。それからというもの、申し訳ないと思いつつ、帳簿付けはすべて妻にお願いしている。自分はと言えば完成した申告用紙を提出するだけだった。

僕は妻の背後からそっとパソコン画面を覗いてみる。
開かれた会計ソフトには収入額やら納税金額やらがリアルな数字となって浮かんでいた。それは正直言って威張れるような数字ではなかった。きれいさっぱりしていて潔いぐらいだった。
妻のため息が長く伸びる。僕の背筋がぴしーっと伸びる。新しい自転車が欲しいなんてとても言える状況じゃない。僕はそっと部屋から抜け出した如新集團

外れたチェーンを掛け直し、モンキーレンチを使って長さを調整をする。試しに立ち漕ぎをしてみるとチェーンは外れなかった。次にウエスとコンパウンドを使用し車体を磨いた。すべてとは言えないまでも錆びはかなり落ちた。最後に潤滑オイルを各部にスプレーし、嫌な音を消した。タイヤは小遣いが入ったら交換すればいい。
たったそれだけの事だったが、なんだか自転車は見違えるようになった。もう恥ずかしくなどなかった。せっかく今まで一緒だったのだ。もう少しだけ付きあってもらおう。

まずは週明け、妻が書きあげてくれる確定申告の用紙を持って、税務署まで自転車で行こうと思った。ちょっと遠いけど運動にもなるし一石二鳥かもしれない。  


Posted by weetears at 12:20Comments(0)nuskin

2014年03月03日

あの禿げた頭が

映画の弁士から漫談家になった徳川夢声は、
声の抑揚だけで、人を泣かせたり笑わせたりできた人物だった。
いわゆる「活動写真」の弁士だった頃、
映し出される映画の状況を把握し、
その感情をみなぎらせることを心がけたという。
すなわち康泰、映画に対する過不足のない解釈が、彼のやるべき第一歩だったようだ。

ピアニストにもそういったところがある。
コンクールなどでも、弾く曲をどう解釈するのが問われる。
五線譜に書かれた曲は同じでも、
解釈ひとつで別の曲かと思うほどに違ってくる。
その思いを乗せて演奏することがポイントでもある。

演劇の世界にも同じようなところがある。
宇野重吉とともに劇団民藝を立ち上げ、共同で代表となった滝沢修は、
名優として知られるが、
シェイクスピア『ヴェニスの商人』の
ユダヤ人金貸しのシャイロック役を演じるとき、
前もって演出者に、喜劇的に演じるのか、悲劇的に演じるのかを問い、
そして、
この芝居の(ヤマの部分である) 法廷の場で演じられる台詞(せりふ)を、
七通りに使い分けて聴かせたという康泰旅行團

シャイロックを悲劇的に演じれば、
その他の人物の役回りも、それに合わせて替えなければならない。
型を破って喜劇的に表現するのも面白い。
そういったところが演出家の腕の見せ所となる。

年下の演出家に対してこんな風に
前もって実演して見せるという心配りをしていた。

舞台で名演技を繰り広げていた滝沢修の、
あの禿げた頭が如新集團、今も懐かしい。  


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2014年02月26日

引き取ってもらうのに

わたしの家庭は、皆さん方の家庭とは違っているのかも知れない。
あるいは、家族の中で、わたしだけが違っているのかも知れない。
わたしの周辺の家庭だけが、皆さんと違っているのかも知れない。


亡くなった家族の、多くの遺品を整理、処分した(ごく身近な)人の話を聞いていると、
「大量にあって疲れた、まいった、大変だった。
想像はしていたが電腦椅、量の多さ、内容のガラクタぶりに驚いた」
という声は聞くが、故人を偲んで辛かった、という声が聞けなかった。
中には、すばらしい高価な宝物を見つけ出した人もいた。

母は、祖母が亡くなったとき、一気にすごいパワーで
蔵の整理やら、祖母の遺品の整理をしていたように記憶する。
なにも、こんな時期にしなくても・・・と思ったが、ノリ、勢いというものがあるのだろう。
休憩も入れず、凝縮した作業で、ががががーーっと、根を詰めてやっていた。
その体力、バイタリティたるや、すごい。ブルトーザーのごとく働く。

何百キロ~トン級の遺品を処分したという話も、二人聞いた。家ごと逆さに振ったのか?
彼女たちには、辛さは、精神的というより、肉体的に大変そうだった。
何トンとなると、ひとつひとつ、感傷に浸っているヒマも余裕もない。
「不要」「必要」「重要」「保留」に分ける、その仕分けには、体力ではなく、判断力がいる。
大量にあると、最初の頃の仕分け判定と、最後のあたりの判定とでは、多少の誤差が生じる。
ぱぱぱぱぱぱっとしていかないと、のろのろしていたら日が暮れて、何ヶ月も何年も、何十年もかかる。

「保留」「重要」に分けられたものを横目で廃品回収屋が狙う。
「これ、もらっていきますね」「だめです」
逆に、いいタイミングに業者がスタンバイしている、この機会に、とばかりに押し付けようとする。
「これ、持って帰ってください」「だめです、いりません」
お互いの価値観が微妙にズレる。
お金になるかどうか、売れるかどうか、だ。

引き取ってもらうのに、お金がかかる。
中には、引き取ってもらうと、お金をもらえるものもある。
この差が、おもしろい香港如新集團

・・・

ひとつの世代が終わるというのは、こういうことだ。
自分で自分の世代を終わらせる、賢い、立つ鳥、あとをにごさず、が、断捨離だろう。
ほったらかして他界し、家族に押し付けた場合、いまいましく、疲れる作業だとげんなりされても、
わたしの周辺では、ひとつひとつに感情移入するヒマは、ないケースが多い。
わたし自身のケースだと、家族は、それはそれはスッキリした気分になると思う。
泣くとすると、すっきりして、泣いて喜ぶ、って涙だろう。

・・・

ガラクタ集めと、コレクターとの違いは?

義父は、コレクターだった。
切手収集も好きで、あれこれ買い集めていた。
「これは、孫にやるんや」と切手帳を見せてくれたときの、喜びの笑顔を思い出す。
切手は、小さく薄いので、いくら大量に集めたところで、あまりかさばらないのが良い。
文学作家の執筆した本は、娘たちが読んだりして、義父亡き後も有効利用した。

価値あるものも、そうでないものも、どっちもある。
初任給以来、ずっと取ってある給料明細書、こういうのもあるらしい。
義母が捨てたかどうかは、知らないが。
夫(=息子)の学生時代からの成績表、こういうのも取ってあるようだ。
「見る?」と義母に聞かれて、「けっこうです」と遠慮したが。
そんなもんは、興味ない。
それも捨てたかどうか、知らないが。
こんなものも?と思うようなものも取ってあるのだが、
じつにきちんと整理整頓されて、ぴしっと、きっちり几帳面に、四角四面状態で収められている。

・・・

本屋で、「断捨離が出来ない人の3つのタイプ」というところを、立ち読みした。
(1)現実逃避型・・・毎日の生活が忙しくて、整理したりマメにできなくて、ほったらかし。
(2)過去愛着型・・・自分の過去の想い出のモノを捨てられない。
(3)将来備蓄型・・・用意しておけば助かるだろう、使うだろうと、せっせと蓄える。

使えるものと、使うものは違う、そうだ。
確かに・・・確かに・・・その通り。
それで言えば、わたしは、使っているものは、じつに少ない。
しかも、使いやすいもの、好きなもの康泰旅行團、というよりは、
手の届くところにあるからという理由で、少々難ありのものでも、渋々使っていることもある。
もっともっと使いやすい、いい製品も持っているくせに。

この1年で使ったものと、使わなかったものに分ける。3年、5年、10年、と年数を分ける。
すると、本当に必要なものと、そうでないものが明確に分かれる。


ただ、ここで、わたしは開き直る。
溜めていて、誰かに迷惑かけてます?
虫がわくとか、異臭がする、家の通路がいっぱいで通れない、部屋がふさがって生活を圧迫する・・・
そんな迷惑は、かけていない。
後に捨てる人が大変かも、というだけだ。
全部捨てたらいいので、仕分けしなくてもいい。
(ただし、預金通帳や貴金属類など、本来セーフティボックスに入れるべきものと、芸術品は捨てないように)

その気になったら、特定の収納箇所に、重要品だけをピックアップして、まとめて入れておく予定。
あとは、すべて捨ててもらったらいい。
この、必要か必要でないかを見分ける、アタマを使う仕分けが面倒でイラつくわけで(時には感傷的になったり)、
全部捨てるとなれば、けっこう体力仕事だけだから負担が少ないと思う。

一度も使っていない嫁入り布団やら、嫁入り道具なんかもまだ夫の実家に置いたまんま。
あれを捨てないでいることで困っている人もいないようだし、今のところは、そう切羽詰っていないような気がしている。
なんていう、この環境が、わたしを断捨離できない人間に育てていってしまっているようだ。

せめて、現在の自分のガラクタだけでも処分しようと、
神妙な面持ちで反省もしつつ、思っておる次第でありまする。  


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2014年02月19日

生命,滋養著生命之光

或許,初見的驚豔,幽雅著距離,便能溫柔著歲月。若有情,若相惜,若初見,剛剛好。
誰,都可以愛誰,也可以不愛誰,這,沒有對錯,都是心靈的選擇,喜歡一種磊落。
生命裡,總有屬於自己的避風的茅草堂,即使破舊,依然可以安放一生的悲喜與冷暖,那些盛開的真誠,
依然可以溫柔著生命。隱忍,堅韌,生動著生命,始終,不會枯萎。一些事物,目睹,才能真實,只有真實,
才能擁有滿滿的歡喜。也能,無悔,此心。
---文字/sissy

一樹溫柔,隔山隔水,曼妙著遇見。
生命,滋養著生命之光。
點點輕盈,穿越著喧囂,毫無猶豫的相擁。
某年某月某天某一時刻,迷失于初綻的嫣然。
原始森林裡,觸摸著四目對視的暖。
月影花語,溫暖著兩個年輕的生命,就這樣依附著自然。
就這樣,一個身影,永恆在我歲月的窗前。
指尖裡流淌著感悟、銘記,還有那一樹嫣紅。
彼此觸摸著真實,有沒有結局,又如何?
那無與倫比的暖意,滋養著乾涸的心田。
那些溫柔,籠罩著午夜的孤單,驅散著清寒。
既然世界上,沒有什麼可以永恆,就單純的享受花開的姹紫嫣紅。
或許,最悲哀的便是,如新集團回首竟然沒有什麼可以渲染記憶。
無論你是否願意,往事依然無悔佇立,溫暖無跡可尋,怎會不疼痛?
我們與時光一起走,某一段竟然是生命的空白,
或許,就是一種極致的殘缺。
最大的缺憾,竟然是觸摸著精神的貧瘠。
愛,只有一個理由,愛著,不愛,什麼都是理由。
身影蹣跚,步履飄搖,是否,所有的精彩背後都是無奈?
一次一次的淚水,澆灌著堅強。
生命之花,依然悄然盛放,閃耀無與倫比的光芒。
廣袤的大地,始終包容著波瀾起伏,
心底的,惟有自己懂得,那種純粹,只屬於自己。
依然守望,守望著生命無悔的樂章。
始終堅信,總有一天,總有那麼一個人,
在你的生命裡,在你的記憶裡,浸染著永不褪色的斑斕。
一個人的篤定,覆蓋不了另一個的敷衍,
或許,言語總是過於蒼白,那就習慣著無言。
多少思念,nuskin 如新載不動一葉輕舟?
或許一片雲朵,偶然投影湖心,層層漣漪,那些歡喜之後便是漠然。
一個人的漠然,觸摸著另一個人的疼痛,
若,你忘了蘇醒,我寧願一直一直閉著眼睛。
不會輕易去愛,不會輕易去恨,
不能做歲月的奴,不讓一條枷鎖沉重了一生。
塵世間,無論什麼樣的情感,只要不辜負珍惜兩字,便是心靈完美的交付。
若愛,只是路過,喜歡一種徹底的凜冽。
藕斷絲連,註定不是愛,
就讓那些情感自然來去,回首,終是沒有辜負了自己,
笑淚飛揚的純真裡,洗滌著心靈的塵埃。
一些心念,始終撞擊著木魚,聲聲老去。
或許,不該強求,不去奢求,
一處安穩的居所,輕依斜陽,看一樹妖嬈,
漫不經心,光陰漸漸走遠。
無論什麼心境,靜守平凡,
依然可以從容淡定,炊煙裡嫣然,幽雅繚繞著生命。
俏,也不爭春,一直,很安靜。
鉛華洗盡透視著那些生命滄桑,觸摸著人間百態,
迂回曲折,終是賞遍落花流水的溫柔。
幾許美麗,盛開在寬容與釋然的慈悲裡。
學會感恩,學會愛與被愛,
總有一些平和,康泰旅行團慢慢滋養著生命裡那些不能遺失的美好。
堅強,是一種滋養,始終會,生動著生命。
細細收藏那些歲月沉澱的心動,總有完美的心動,
讓生命重新發芽,擁有實實在在的歡顏。
低落塵埃的卑微,即便開出花兒,也會枯萎。
只有那些驕傲掛滿枝頭,開出的花兒,
才能邂逅那些盛開的疼惜,一直生長著,
每天真實觸摸著永遠,永不凋零,
狂風暴雨,折損不了心底的美好。
凝眸春的身影,那些清澈,依舊會日漸蔥蘢。
時空裡,總有純淨可以追尋,
捨棄那些啜泣,那些不會丟失的,終會融入生命。
生命,斂盡枯澀,穿越著荒蕪與靜寂,盡綻斑斕。
悉心裡,撿拾著至誠,一些溫暖,有一日定能沁滿心懷。
清清楚楚,乾乾淨淨,對生活,我不拖不欠。
一直堅信,洗盡鉛華,在寂寂長夜,
總有一個人,會給你所有的溫暖。
生命如花,璨然著時空,悄然綻放著無盡芬芳。
那些嫣然,無懼風雨,永遠,不會失色。
若有一天,你經過我的窗前,我深深的珍藏你的虔誠。
若干年後,無關結局,若有記憶,
還可以觸摸飽滿,觸摸微笑,觸摸歡喜,便是最美的結局。
  


Posted by weetears at 16:17Comments(0)nuskin

2013年12月30日

とは言え

俳人・小林一茶の句には、正月を詠んだ句が多い。

中でも、よく知られているもので言えば、
「めでたさも 中くらいなり おらが春」
「あっさりと 春は来にけり 浅黄空」
など、一茶の卜維廉中學、ささやかな人生観を投影した句がすぐに浮かぶ。

同じく正月を詠んだ句に、
「春立や 菰(こも)もかぶらず 五十年」というのがある。
この句の意味を簡単に紹介すると、
「この歳まで乞食(=菰かぶり) に身をやつす事もなく、五十歳の正月を迎えたなぁ」
というところだろうか。
やはり、一茶らしい小市民的な香りが漂っている。

思えば、元旦という日は天文学上の特別な日ではない。
日付の面で一月一日というだけで、
他の日と変わりのない日と言ってもいい。
だけども、正月の朝を迎えると、何か空気まで
昨日と変わっている気分になる。

とは言え、誰もが感じるところだが、
だんだん正月らしさが薄れていっているように思える。
しかし、よくよく観察してみると如新nuskin產品
それ以上に、本当に薄れていっているのは正月そのものではなく、
それを前にした大晦日の有り様かも知れない。

井原西鶴は、庶民の大晦日にこそ、面白みがあるとして、
『世間胸算用(せけんむねさんよう)』を描いてみせた。
江戸時代、大晦日(みそか=月末)は、一年分のツケ払いの決算の日となる。
そのため、貸し手にとっては取り立てなければならない重要な日。
借り手にとっては、何とか逃れようとする一日。
「てんやわんや」の人間模様が展開されるのが大晦日だった。

現代の大晦日といえば、たいてい、普段より増して賑やかなテレビ番組が続く。
そして、夕方頃より世界タイトルマッチや紅白歌合戦など、ますます賑々しい。

と、急に場面が変わるnu skin如新

映し出されるのは、知恩院『除夜の鐘』。
(この落差が、「妙」かも知れない。)

そして、新年を迎える事になる。


今日は、おそらく仕事納め。

いよいよ、お正月行事のモード開幕といったところだろう。  


Posted by weetears at 12:27Comments(0)nuskin