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2014年01月06日

少年のぼくは

なぜありがたいのかはわからないが、火のそばにいると体が温まる。なにかが体の中にじわじわと染み込んでくる。食事をして、快く内蔵が満たされてくるのと同じ感覚かもしれない。
動物的で原始的な、素朴な充足感に包まれるようだ中醫針灸減肥。とにかくありがたい。寒い時期はいっそうありがたい。

大阪の南部に、弥生文化博物館という施設がある。
館内の一角に弥生時代の掘立て小屋が再現され、炉の火を取り囲んでいる家族の模像が展示されている。その光景に特別な懐かしさを感じる。
その時代は、火というものが今よりずっと貴重なものだっただろう。火は生活であり、命そのものであったかもしれない。そのような命の火が、いまも現代人の血を温めるのだろうか。
すくなくとも、ぼくの中では火の記憶は懐かしい。

子どもの頃は、路上のいたるところで大人たちが焚火をしていた。
そして火の周りには、吸い寄せられるように人が集まったものだ。そこで楽しいことや得することがあったわけではない。だが、火のそばにいるだけで快い気分になれるのだった。不思議な安心感があった。

少年のぼくは、大工という職業が好きだった。
彼らが作業をしているのを、どれだけ見ていても飽きなかった不孕症治療。彼らが作業しているそばには、必ずといっていいほど焚火があった。彼らは汗をかいて作業していたから、火は暖をとるだけのものではなかったろうし、木屑を燃やすためだけに火を燃やし続けていたのでもないだろう。
そばに火の温もりがあることが、孤独な労働の心の拠りどころになっていたのではないだろうか。
木を裁断することや柱を組み立てていく作業は、火という原始的で祭祀的なものと、なにかしらの精神的な繋がりがあるように思う。

最近は焚火のような、煙りや匂いのある火にお目にかかることはほとんどない。
年の初めに近くの神社の境内で燃やされている焚火が牛欄牌奶粉、貴重なものに思えるようになった。大きな切り株が勢いよく燃えている。じんじんと刺すように体に伝わってくる熱気に浸る。いっとき弥生人の喜びというか、古代の神の恩寵みたいなものが体に蘇ってくるような気がする。
正月くらい神の領域に近づいてみたいと思い、おみくじなどを引いてみる。だがその程度の信仰心しかないぼくには、おみくじの紙の言葉は古くて新鮮ではあるけれど、焚火から受ける炎の託宣に適うものではないようだ。
吉と出るか凶と出るか、亀の甲羅や鹿の骨などを火で焼いて神の声を聞いたという、古代人たちの真剣な心をおもう。  


Posted by weetears at 11:27Comments(0)健康