スポンサーサイト

上記の広告は2週間以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書くことで広告が消せます。  

Posted by スポンサー広告 at

2014年02月26日

引き取ってもらうのに

わたしの家庭は、皆さん方の家庭とは違っているのかも知れない。
あるいは、家族の中で、わたしだけが違っているのかも知れない。
わたしの周辺の家庭だけが、皆さんと違っているのかも知れない。
亡くなった家族の、多くの遺品を整理、処分した(ごく身近な)人の話を聞いていると、
「大量にあって疲れた、まいった、大変だった。
想像はしていたが、量の多さ、内容のガラクタぶりに驚いた」
という声は聞くが、故人を偲んで辛かった、という声が聞けなかった。
中には、すばらしい高価な宝物を見つけ出した人もいた。
母は、祖母が亡くなったとき、一気にすごいパワーで
蔵の整理やら、祖母の遺品の整理をしていたように記憶する。
なにも、こんな時期にしなくても・・・と思ったが、ノリ、勢いというものがあるのだろう。
休憩も入れず、凝縮した作業で、ががががーーっと、根を詰めてやっていた。
その体力、バイタリティたるや、すごい。ブルトーザーのごとく働く。
何百キロ~トン級の遺品を処分したという話も、二人聞いた。家ごと逆さに振ったのか?
彼女たちには、辛さは、精神的というより、肉体的に大変そうだった。
何トンとなると、ひとつひとつ、感傷に浸っているヒマも余裕もない。
「不要」「必要」「重要」「保留」に分ける、その仕分けには、体力ではなく、判断力がいる。
大量にあると、最初の頃の仕分け判定と、最後のあたりの判定とでは、多少の誤差が生じる。
ぱぱぱぱぱぱっとしていかないと、のろのろしていたら日が暮れて、何ヶ月も何年も、何十年もかかる。
「保留」「重要」に分けられたものを横目で廃品回収屋が狙う。
「これ、もらっていきますね」「だめです」
逆に、いいタイミングに業者がスタンバイしている、この機会に、とばかりに押し付けようとする。
「これ、持って帰ってください」「だめです、いりません」
お互いの価値観が微妙にズレる。
お金になるかどうか、売れるかどうか、だ。
引き取ってもらうのに、お金がかかる。
中には、引き取ってもらうと、お金をもらえるものもある。
この差が、おもしろい香港如新集團
・・・
ひとつの世代が終わるというのは、こういうことだ。
自分で自分の世代を終わらせる、賢い、立つ鳥、あとをにごさず、が、断捨離だろう。
ほったらかして他界し、家族に押し付けた場合、いまいましく、疲れる作業だとげんなりされても、
わたしの周辺では、ひとつひとつに感情移入するヒマは、ないケースが多い。
わたし自身のケースだと、家族は、それはそれはスッキリした気分になると思う。
泣くとすると、すっきりして、泣いて喜ぶ、って涙だろう。
・・・
ガラクタ集めと、コレクターとの違いは?
義父は、コレクターだった。
切手収集も好きで、あれこれ買い集めていた。
「これは、孫にやるんや」と切手帳を見せてくれたときの、喜びの笑顔を思い出す。
切手は、小さく薄いので、いくら大量に集めたところで、あまりかさばらないのが良い。
文学作家の執筆した本は、娘たちが読んだりして、義父亡き後も有効利用した。
価値あるものも、そうでないものも、どっちもある。
初任給以来、ずっと取ってある給料明細書、こういうのもあるらしい。
義母が捨てたかどうかは、知らないが。
夫(=息子)の学生時代からの成績表、こういうのも取ってあるようだ。
「見る?」と義母に聞かれて、「けっこうです」と遠慮したが。
そんなもんは、興味ない。
それも捨てたかどうか、知らないが。
こんなものも?と思うようなものも取ってあるのだが、
じつにきちんと整理整頓されて、ぴしっと、きっちり几帳面に、四角四面状態で収められている。
・・・
本屋で、「断捨離が出来ない人の3つのタイプ」というところを、立ち読みした。
(1)現実逃避型・・・毎日の生活が忙しくて、整理したりマメにできなくて、ほったらかし。
(2)過去愛着型・・・自分の過去の想い出のモノを捨てられない。
(3)将来備蓄型・・・用意しておけば助かるだろう、使うだろうと、せっせと蓄える。
使えるものと、使うものは違う、そうだ。
確かに・・・確かに・・・その通り。
それで言えば、わたしは、使っているものは、じつに少ない。
しかも、使いやすいもの、好きなもの康泰旅行團、というよりは、
手の届くところにあるからという理由で、少々難ありのものでも、渋々使っていることもある。
もっともっと使いやすい、いい製品も持っているくせに。
この1年で使ったものと、使わなかったものに分ける。3年、5年、10年、と年数を分ける。
すると、本当に必要なものと、そうでないものが明確に分かれる。
ただ、ここで、わたしは開き直る。
溜めていて、誰かに迷惑かけてます?
虫がわくとか、異臭がする、家の通路がいっぱいで通れない、部屋がふさがって生活を圧迫する・・・
そんな迷惑は、かけていない。
後に捨てる人が大変かも、というだけだ。
全部捨てたらいいので、仕分けしなくてもいい。
(ただし、預金通帳や貴金属類など、本来セーフティボックスに入れるべきものと、芸術品は捨てないように)
その気になったら、特定の収納箇所に、重要品だけをピックアップして、まとめて入れておく予定。
あとは、すべて捨ててもらったらいい。
この、必要か必要でないかを見分ける、アタマを使う仕分けが面倒でイラつくわけで(時には感傷的になったり)、
全部捨てるとなれば、けっこう体力仕事だけだから負担が少ないと思う。
一度も使っていない嫁入り布団やら、嫁入り道具なんかもまだ夫の実家に置いたまんま。
あれを捨てないでいることで困っている人もいないようだし、今のところは、そう切羽詰っていないような気がしている。
なんていう、この環境が、わたしを断捨離できない人間に育てていってしまっているようだ。
せめて、現在の自分のガラクタだけでも処分しようと、
神妙な面持ちで反省もしつつ、思っておる次第でありまする。  


Posted by weetears at 16:41Comments(0)nuskin

2014年02月19日

生命,滋養著生命之光

或許,初見的驚豔,幽雅著距離,便能溫柔著歲月。若有情,若相惜,若初見,剛剛好。
誰,都可以愛誰,也可以不愛誰,這,沒有對錯,都是心靈的選擇,喜歡一種磊落。
生命裡,總有屬於自己的避風的茅草堂,即使破舊,依然可以安放一生的悲喜與冷暖,那些盛開的真誠,
依然可以溫柔著生命。隱忍,堅韌,生動著生命,始終,不會枯萎。一些事物,目睹,才能真實,只有真實,
才能擁有滿滿的歡喜。也能,無悔,此心。
---文字/sissy

一樹溫柔,隔山隔水,曼妙著遇見。
生命,滋養著生命之光。
點點輕盈,穿越著喧囂,毫無猶豫的相擁。
某年某月某天某一時刻,迷失于初綻的嫣然。
原始森林裡,觸摸著四目對視的暖。
月影花語,溫暖著兩個年輕的生命,就這樣依附著自然。
就這樣,一個身影,永恆在我歲月的窗前。
指尖裡流淌著感悟、銘記,還有那一樹嫣紅。
彼此觸摸著真實,有沒有結局,又如何?
那無與倫比的暖意,滋養著乾涸的心田。
那些溫柔,籠罩著午夜的孤單,驅散著清寒。
既然世界上,沒有什麼可以永恆,就單純的享受花開的姹紫嫣紅。
或許,最悲哀的便是,如新集團回首竟然沒有什麼可以渲染記憶。
無論你是否願意,往事依然無悔佇立,溫暖無跡可尋,怎會不疼痛?
我們與時光一起走,某一段竟然是生命的空白,
或許,就是一種極致的殘缺。
最大的缺憾,竟然是觸摸著精神的貧瘠。
愛,只有一個理由,愛著,不愛,什麼都是理由。
身影蹣跚,步履飄搖,是否,所有的精彩背後都是無奈?
一次一次的淚水,澆灌著堅強。
生命之花,依然悄然盛放,閃耀無與倫比的光芒。
廣袤的大地,始終包容著波瀾起伏,
心底的,惟有自己懂得,那種純粹,只屬於自己。
依然守望,守望著生命無悔的樂章。
始終堅信,總有一天,總有那麼一個人,
在你的生命裡,在你的記憶裡,浸染著永不褪色的斑斕。
一個人的篤定,覆蓋不了另一個的敷衍,
或許,言語總是過於蒼白,那就習慣著無言。
多少思念,nuskin 如新載不動一葉輕舟?
或許一片雲朵,偶然投影湖心,層層漣漪,那些歡喜之後便是漠然。
一個人的漠然,觸摸著另一個人的疼痛,
若,你忘了蘇醒,我寧願一直一直閉著眼睛。
不會輕易去愛,不會輕易去恨,
不能做歲月的奴,不讓一條枷鎖沉重了一生。
塵世間,無論什麼樣的情感,只要不辜負珍惜兩字,便是心靈完美的交付。
若愛,只是路過,喜歡一種徹底的凜冽。
藕斷絲連,註定不是愛,
就讓那些情感自然來去,回首,終是沒有辜負了自己,
笑淚飛揚的純真裡,洗滌著心靈的塵埃。
一些心念,始終撞擊著木魚,聲聲老去。
或許,不該強求,不去奢求,
一處安穩的居所,輕依斜陽,看一樹妖嬈,
漫不經心,光陰漸漸走遠。
無論什麼心境,靜守平凡,
依然可以從容淡定,炊煙裡嫣然,幽雅繚繞著生命。
俏,也不爭春,一直,很安靜。
鉛華洗盡透視著那些生命滄桑,觸摸著人間百態,
迂回曲折,終是賞遍落花流水的溫柔。
幾許美麗,盛開在寬容與釋然的慈悲裡。
學會感恩,學會愛與被愛,
總有一些平和,康泰旅行團慢慢滋養著生命裡那些不能遺失的美好。
堅強,是一種滋養,始終會,生動著生命。
細細收藏那些歲月沉澱的心動,總有完美的心動,
讓生命重新發芽,擁有實實在在的歡顏。
低落塵埃的卑微,即便開出花兒,也會枯萎。
只有那些驕傲掛滿枝頭,開出的花兒,
才能邂逅那些盛開的疼惜,一直生長著,
每天真實觸摸著永遠,永不凋零,
狂風暴雨,折損不了心底的美好。
凝眸春的身影,那些清澈,依舊會日漸蔥蘢。
時空裡,總有純淨可以追尋,
捨棄那些啜泣,那些不會丟失的,終會融入生命。
生命,斂盡枯澀,穿越著荒蕪與靜寂,盡綻斑斕。
悉心裡,撿拾著至誠,一些溫暖,有一日定能沁滿心懷。
清清楚楚,乾乾淨淨,對生活,我不拖不欠。
一直堅信,洗盡鉛華,在寂寂長夜,
總有一個人,會給你所有的溫暖。
生命如花,璨然著時空,悄然綻放著無盡芬芳。
那些嫣然,無懼風雨,永遠,不會失色。
若有一天,你經過我的窗前,我深深的珍藏你的虔誠。
若干年後,無關結局,若有記憶,
還可以觸摸飽滿,觸摸微笑,觸摸歡喜,便是最美的結局。
  


Posted by weetears at 16:17Comments(0)nuskin

2014年02月12日

そんな中

 僕は寒さに弱い。冬になるとだいたい一度や二度は風邪をひいてしまう。しかも高熱にうなされるタイプのやつだ。

 関東で記録的な大雪が降った如新集團。その日は例によって発熱していた。
 顔はほてっているが体の寒気は収まらない。僕は布団に潜りこんだ。そして隙間から窓の外を見た。曇り始めた窓に、降り続く雪が見える。庭は真っ白になっていた。垣根もベンチも植木鉢も、みんな雪に覆われている。

 そんな中、息子が雪玉を転がしてた。雪だるまでも作っているのだろう。
 子供って本当に雪が好きだ。息子は前日、天気予報を聞いて喜んでいた。なにをして遊ぼうかと、あれこれと計画を立てていた。そして今、彼は雪玉を転がしている。僕は体温を計っている。38度5分。ふむふむ、数字を見て更にしんどくなってくる。
 ぼうっとする頭で、僕は息子が産まれた時の事を思い出していた。

 今から七年前の事、季節は今と同じく冬の日だったnuskin 如新。妻は初産という事もあり、関西の実家に戻っていた。
 東京の仕事先で、そろそろだという連絡を受けた。
 僕は慌てて夜の新幹線に飛び乗った。東京から京都までの二時間がとても長く感じた。そろそろ静岡越えたな、と思った時はまだ新横浜で、それぐらいもどかしかった。新幹線の楽しみである缶ビールも、サンドイッチも、かちかちに凍ったアイスクリームもこの日は無し。僕はただひたすら目的地に着くのを待っていた。

 ようやく京都駅に着くと義母の車で、妻のいる産院に向かった。思えばその時から雪がちらついていた。
 義母は「初めての出産は時間が掛かる」と言った。産院で再会した妻も「いつ産まれるか自分でもわからない」と言った。その言葉通り、陣痛は間隔を狭めながらも何時間も続いた。隣りで見ていてとても辛そうだった。
 そして真夜中の三時過ぎ、ようやく息子は誕生した。妻はもちろん、僕も義母も大きく息を吐いた。ふと窓を見ると、雪明りに光る夜の景色が広がっていた。

 その後力尽きた僕は廊下のベンチで眠ってしまった。そして当然風邪をひいた。乳児たちに風邪をうつしてはいけないので、そのまま産院から退去処分となった。予定ではしばらく泊まりこむつもりだったのだが、結局は東京行きの新幹線に乗っていた。相変わらず間抜けな結果だが、帰りの新幹線では風邪にもかかわらずしっかりと祝杯のビールを飲んだ。

 とは言え、子供が産まれる事には不安もあった。どう考えても自分がまともな親になれるとは思えなかった。
 その時僕は出会えたばかりの息子の手を思い出した。とても小さく頼りなげな手。そんな手でも指きりはできる。約束はできる。良い父親になどなれないかも知れない。しかしどんな時でもそばにいる。どんな時でも必ずそばにいる……僕はビールを飲み干し、不安を吹き飛ばした。気が付いたら東京だった。まるで眠っていたみたいだった。

 窓の外は相変わらずの雪景色。息子は苦労しながら雪玉を重ねていた。そして立派な雪だるまが完成した。目と口には玉砂利が使われている。そのにこりと笑った雪だるまと目が合った如新nuskin產品。今日は多分、君といつまでも見つめ合っているのだろう。
 熱はまだまだ下がらない。
 窓の外で息子が得意気な表情を見せた。完成した雪だるまを自慢しているのだろう。  


Posted by weetears at 11:29Comments(0)diary