2013年12月17日

ちなみに

寒い日が続く。
これから、ますます寒くなっていくようだ。

と、ブログを書くにも、寒いせいか、熱チャージができない。
とりあえず、お腹に熱いものを入れて(あ、春雨カップスープです)、さて、無理やりウォーミングアップ。

ここのところ、ブログ村エッセー、ちょっと順序が入れ替わっている。
わたしは、不思議なことに中風、ブロガーの皆さんを応援している。

ちなみに、
今日のブログ記事内容は、自分のためだけに書いた、自分自身の考えをまとめるためのものなので、
ここで、Uターンしてください。
駆け引き無く、本心です。

・・・

それはそうと・・・

急激に寒くなったので、水道管が凍って破裂してはいけないから、即、対応を!と実家の母からの依頼、要請あり。
県をまたいで、高速道路を乗り継いで、そこそこの時間がかかる、
実家まで車でえんやこら、えっさっさーと駆けつける。
運転は、娘婿。
孫、娘、ついでに夫も乗って、母の入院先へのお見舞いも兼ねて、遠路はるばる大移動。
実家の屋外に設置してある水道栓に、所定の袋をかぶせて、ひとつひとつ丁寧に紐で縛っていく。

所定の袋には、それぞれ個々に、「どこどこの○○の横の、なになにの水道栓」と
太く大きくマジックインクで書かれた封筒が紐で、くくられている。
所定の各々の袋は、これまた、各々の所定の場所に保存されている。
宝探しゲームのように、その書かれた指示どおりの場所に行って、所定の水道栓にそれらの袋をかぶせて固定する。
その間、病室から、母からの指令の電話がじゃんじゃん入る。
補足説明が、細かく続く。
まるで、徳田虎雄氏のごとく。

人口わずか、田舎なので、なにしろ、だだっ広い。
ちょっと水道管をどうのこうの、という作業でも、近所に住んでいれば、ちょちょいのちょい、だが、
遠くからは、この度は、お見舞いのついでであったから、どうってことはなかったものの、今後が大変だ。
毎年、母がやっていることで、任せっぱなしだったが、
予期せぬ入院というアクシデントがあると、対応できないことが出てくる。
母は高齢につき、これから、いろんなことが十分予測できるので、
寒くなる前に、やっておかなければいけない雪纖瘦


娘、曰く。
「行くだけで1日仕事やね」

ま、そういうこと。

わたしは、なぜか、この手間のかかる無用の長物である「実家」が好きなのだ。
手間だけでなく、お金もかかる。
おそらく、わたしひとりの力では、とうてい維持できないだろう。

この実家は、人里離れていて、交通の便は、非常に悪く、資産価値もなく、家屋は古く修理維持費がかかり、
いいところは、まるでない。
今は、母がどうにか手間隙かけて維持しているが、入院したり、体が動かなくなったりすると、
どうしようもない。
母は最近「高齢で危ないから運転禁止」と我々に言われて、いやいやながら免許を返上したので、
それまでは自ら車を運転して行っていたが、この家に行く手段を絶たれ、不便極まりない。

誰の得にもならない、誰も喜ばない、なんのプラスにもならない、労力とお金ばかりかかる、
こんな実家に、なぜ、わたしは、愛情を注ぐのか?
しかも、遠方に住むわたしは、すぐに飛んで行って、スピーディな対応や処置ができるわけでもないのに。
自分で運転して、高速道路をぴゅっとぶっ飛ばして行くのならまだしも、
いまだに高速道路の乗り換えがわかっていない、
誰かに運転してもらって、行っている、自分自身がお荷物のような人間である。
(一応は、運転できるんだけど、・・・運転、その他が、ひどい・・・)


いずれ、わたしの希望通りにはいかなくなる日が来るだろう。
いくら愛着があっても、現実的にできることと、できないことがある。
少しずつ、荒れ果て朽ち果てて、草ぼうぼう、廃屋になっていくのを見守るしかないのか。

わたしが出来る間は、出来る範囲内で、維持に協力したいと思っている。
そのためには、若い世代の力も借りたいが、
彼らにとって、なんの価値もないものを、無理やり片棒を担がせるのも、忍びない。

が、わたしは、モノの継承は、文化の継承でもあると思っている。


不必要なモノばかりに囲まれて自分の家に暮らしているわたしを見て、子供たちは、批判的であるが、
それはあくまでの、わたしの今の生活。デイリー・ライフ。
自分自身も、誉めたものではないと自覚しているし、できるものなら断捨離したいし、
今、好き勝手している私の家を、べつに継承する必要などまるでなく、
むしろ、反面教師としてのタタキ台でもなんでもいい。

しかし、実家は別である。
これと同じパターンが、夫の実家にも言える。

こんなに複数の、手間隙のかかる、大きな無用の長物を抱えて、どうするの?
夫の実家は、息子に託す曾璧山中學
(息子は、あと50年したら帰ってくるそうな。気の長い話だ。
わたしは天国か、地獄、草葉の陰から、見守っていることだろう)
バトンタッチのバトンが、うまく手渡らなくて、手から零れ落ちたときに、家は消滅することだろう。


父や母が、なによりも愛して、大事にしていた、イエ。
そして、義父や義母、その先代たち、親戚たちの、命ともいえる?イエ。
「時代錯誤」とわたしは全面的に否定的だったが、いま、この年齢になって、少し見直しの時期に入っている。
イエ制度そのものは、核家族になり、時代の流れに抗うことはできない。
戦後、民法も改定され、いまや婚外子も財産権が認められる時代。
明らかに時代と逆行した、意識の芽生えである。
が、違う形で、生きてきた証しのようなものを継承できればいいなあと、考える。

それが、ハードとしての「家」だとしたら、反論も大きいだろう。
まったく意味がない、と。
「家」は、生きた証しがいくつかあるうちの、ひとつの大きな柱となるツールである。
家を映像や画像にデータ化して、心に保存するという方法もある。
家は、究極の断捨離・対象物かも知れない。

家も、保存できればいい。
しかし、なにも手をつくさなければ、人の棲まない家は傷んでくる。
稀有な歴史的建造物でもない限り、永久保存はありえない。
わたしが、いくら望んでも、できないものは、できない。
そういうことだ。

泣く泣く断捨離の、その日が来るまで、
思い残すことなく、悔いなく、一生懸命、無用の長物に関わっていきたいと思う。


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