2014年01月13日
1月7日の早朝
きのうは「七草」だった。
昭和30年代に入る前の時期だが、
僕の故郷では「七草祝い」というのがあった。
数え年七歳の子どもが牛欄牌奶粉、空のお椀を持って近所の家々を回り、
その家の七草粥をもらって帰るのだ。
l_04[1]
人の家に「ください」と行くのが嫌な僕は、祖母に無理やり背中を押され、
自宅からずっと道を下ったところにあったマツシタさんちへ向かった。
もちろん、いきなり「お粥ください」と行くのではなく、
あらかじめ、「行かせるよ」「いいよ、おいで」というやり取りがあるわけで、
行けば貰えるという筋書きはできていた。
それでも「もし貰えなければ恥ずかしい」みたいな思いがどこかにあった。
いま考えると、どこかおかしな小僧だったのだ。
1月7日の早朝。
祖母に渡されたお椀を持って、マツシタさんちの玄関先に立つと、
待ってたよとばかりに、にこやかにそこのオバサンが出てきて、
「元気な子になりなさいと」と、お粥をよそってくれた。
「嫌な仕事」はすぐに終わり牛欄牌、ホッとした僕はなんだか嬉しくなった。
スキップしながら軽やかな足取りで、5分ほどの道程を急いでいると、
サンダル履きの足指の先を独特のヌルヌル感が包んだ‥‥。
それは、まだ温かみの残る、牛の糞だった。
安堵と嬉しさの直後に来たヌルヌル‥‥。
なぜか無性に涙が出た。
「早く帰って無理やり行かせたバアチャンに文句言おう」
自分の不注意によるくだらないミスを、自分以外の誰かに、
つい当たってしまう牛欄牌回收。
この「性質」は、いまでも残っている。
昭和30年代に入る前の時期だが、
僕の故郷では「七草祝い」というのがあった。
数え年七歳の子どもが牛欄牌奶粉、空のお椀を持って近所の家々を回り、
その家の七草粥をもらって帰るのだ。
l_04[1]
人の家に「ください」と行くのが嫌な僕は、祖母に無理やり背中を押され、
自宅からずっと道を下ったところにあったマツシタさんちへ向かった。
もちろん、いきなり「お粥ください」と行くのではなく、
あらかじめ、「行かせるよ」「いいよ、おいで」というやり取りがあるわけで、
行けば貰えるという筋書きはできていた。
それでも「もし貰えなければ恥ずかしい」みたいな思いがどこかにあった。
いま考えると、どこかおかしな小僧だったのだ。
1月7日の早朝。
祖母に渡されたお椀を持って、マツシタさんちの玄関先に立つと、
待ってたよとばかりに、にこやかにそこのオバサンが出てきて、
「元気な子になりなさいと」と、お粥をよそってくれた。
「嫌な仕事」はすぐに終わり牛欄牌、ホッとした僕はなんだか嬉しくなった。
スキップしながら軽やかな足取りで、5分ほどの道程を急いでいると、
サンダル履きの足指の先を独特のヌルヌル感が包んだ‥‥。
それは、まだ温かみの残る、牛の糞だった。
安堵と嬉しさの直後に来たヌルヌル‥‥。
なぜか無性に涙が出た。
「早く帰って無理やり行かせたバアチャンに文句言おう」
自分の不注意によるくだらないミスを、自分以外の誰かに、
つい当たってしまう牛欄牌回收。
この「性質」は、いまでも残っている。
2013年12月03日
たしかに
喜劇の劇作家として知られるモリエールの話には、
『タルチュフ』や『スカパンの悪だくみ』など、
ダマしたりダマされる話が多い。
劇中で、ひと芝居うちOtterBox保護殼、
ダマそうとすることで物語が展開していく。
ところが、ウソがバレてしまい、結局は大失敗。
そこに笑いが生じるというもの。
モリエールと同時代の人物に、同じく劇作家のコルネイユがいるが、
彼の言葉に
「ウソをつくには、良い記憶力が必要になる」というのがある。
たしかに、一度ウソをつくと、
少なくとも、それをしっかり記憶しておかなければならない。
また、ウソというのはつけばつくほど、
ウソをつかねばならなくなる。
そして、ついたウソを全て記憶しておかないと結局はバレてしまう。
まさに、良い記憶力が必要になる。
ウソは悪いものか?と言えば、一概に悪いとも言えない。
承知でダマされたいと思う人もいる。
たとえば防水手機保護殼、
”ほら話の世界”なども、ウソの世界。
アメリカには、”ほら話(トール・テイルズ)”を語る伝統があったようだ。
西部あたりでは、人が集まっては、持ちネタを披露しあったようだ。
その幾つかを紹介すると、
「夕方、雪が降ってきたので、連れて来た馬を近くにあった棒にくくりつけていたんだ。
朝になったら馬が教会の塔にぶら下がっていた。
な~にね、昨日、馬をつないだ木は、教会の尖塔で、
次の日に雪が溶けて、馬だけが塔の上に残っていたんだ。」
また、
「あんまり高い木だったので、3人でなければ見上げられなかった。
一人が、下から見上げいって、二人目がそれを引き継いで見上げ、
三人目でやっとてっぺんが見えるほど高かった」
などOtterbox Commuter、
明らかにウソとわかる話。
楽しい気分にさせるウソ話には、記憶力など必要じゃない。
『タルチュフ』や『スカパンの悪だくみ』など、
ダマしたりダマされる話が多い。
劇中で、ひと芝居うちOtterBox保護殼、
ダマそうとすることで物語が展開していく。
ところが、ウソがバレてしまい、結局は大失敗。
そこに笑いが生じるというもの。
モリエールと同時代の人物に、同じく劇作家のコルネイユがいるが、
彼の言葉に
「ウソをつくには、良い記憶力が必要になる」というのがある。
たしかに、一度ウソをつくと、
少なくとも、それをしっかり記憶しておかなければならない。
また、ウソというのはつけばつくほど、
ウソをつかねばならなくなる。
そして、ついたウソを全て記憶しておかないと結局はバレてしまう。
まさに、良い記憶力が必要になる。
ウソは悪いものか?と言えば、一概に悪いとも言えない。
承知でダマされたいと思う人もいる。
たとえば防水手機保護殼、
”ほら話の世界”なども、ウソの世界。
アメリカには、”ほら話(トール・テイルズ)”を語る伝統があったようだ。
西部あたりでは、人が集まっては、持ちネタを披露しあったようだ。
その幾つかを紹介すると、
「夕方、雪が降ってきたので、連れて来た馬を近くにあった棒にくくりつけていたんだ。
朝になったら馬が教会の塔にぶら下がっていた。
な~にね、昨日、馬をつないだ木は、教会の尖塔で、
次の日に雪が溶けて、馬だけが塔の上に残っていたんだ。」
また、
「あんまり高い木だったので、3人でなければ見上げられなかった。
一人が、下から見上げいって、二人目がそれを引き継いで見上げ、
三人目でやっとてっぺんが見えるほど高かった」
などOtterbox Commuter、
明らかにウソとわかる話。
楽しい気分にさせるウソ話には、記憶力など必要じゃない。
2013年11月21日
これほど子供に対して
反吐(へど)が出るほど大嫌いな言葉だ。
子育てに対する至らなさ、ある意味、親としての無責任を正当化した言葉。
働く事と生きる事を美化し(尊いことではあるが)牛欄牌奶粉
子供のパーソナリティーを蔑ろにしたにも関わらず、
それを言い訳にして自分が子供に行ってきた愛情の放棄行動を正当化する言葉。
これほど子供に対して、親として無責任な言葉はないと思う。
こういう会話がなされている場に否応なしに居させられる時、
込み上げてくる反論したい怒りを呑み込む苦しさと、
それを抑えつけて作り笑いをする自分への嫌悪と憤り、
そんな親の前で一生懸命いい子でいる子供の牛欄牌回收、
言葉にできない心の叫びを察しているかもしれない私、
生き易い自分に近付くほど、世の中の鈍感人間達にいつ爆発するか、
最近突然現れる、周りを敵に回す自分の〈素直〉という感情の暴走が、怖いです。
天使の顔をした真実や正義は、実は世の中を生きるには〈悪〉なのではないのか?
周りに合わせて生きる〈悪〉の方が、世の中を生きるにはずっと生き易いのではないのか?
ならば私がパーソナリティー(自我同一性)を獲得することは危険な事なのではないのか?
生まれてから人間としての環境が固定し過ぎた今牛欄牌問題奶粉、
そういう私によって悪影響を与えられる周囲が確実に存在する今、
私は私らしくなってはいけない、最早手遅れかもしれない、
私はそんな結論に辿り着こうとしています。
子育てに対する至らなさ、ある意味、親としての無責任を正当化した言葉。
働く事と生きる事を美化し(尊いことではあるが)牛欄牌奶粉
子供のパーソナリティーを蔑ろにしたにも関わらず、
それを言い訳にして自分が子供に行ってきた愛情の放棄行動を正当化する言葉。
これほど子供に対して、親として無責任な言葉はないと思う。
こういう会話がなされている場に否応なしに居させられる時、
込み上げてくる反論したい怒りを呑み込む苦しさと、
それを抑えつけて作り笑いをする自分への嫌悪と憤り、
そんな親の前で一生懸命いい子でいる子供の牛欄牌回收、
言葉にできない心の叫びを察しているかもしれない私、
生き易い自分に近付くほど、世の中の鈍感人間達にいつ爆発するか、
最近突然現れる、周りを敵に回す自分の〈素直〉という感情の暴走が、怖いです。
天使の顔をした真実や正義は、実は世の中を生きるには〈悪〉なのではないのか?
周りに合わせて生きる〈悪〉の方が、世の中を生きるにはずっと生き易いのではないのか?
ならば私がパーソナリティー(自我同一性)を獲得することは危険な事なのではないのか?
生まれてから人間としての環境が固定し過ぎた今牛欄牌問題奶粉、
そういう私によって悪影響を与えられる周囲が確実に存在する今、
私は私らしくなってはいけない、最早手遅れかもしれない、
私はそんな結論に辿り着こうとしています。
2013年10月11日
先般(10月3日)
先般(10月3日)、NHKBS宇宙チャンネルで「地球は75年後に消滅する」という衝撃的な番組があった牛栏奶粉最新事件2013。
シュミレーション・ドラマとは言え、SF小説ではない。
「地球は巨大な質量をもつ物体に磁力で吸い寄せられて衝突して破滅する」という科学的知見は信憑性がある。
一昨日ノーベル物理学賞を受賞した物理学者(英エディンバラ大学名誉教授のピーター・ヒッグス博士とベルギーブリュッセル自由大学名誉教授のフランソワ・アングレール博士)は、素粒子の質量(重さ)の起源の解明につながる理論を提唱。
二人は、本来、質量をもたい素粒子が、質量を持つようになる未知の素粒子(ヒッグス粒子)の存在を理論的に予言していた。
そのことが、スイスのジュネーブ郊外にあるCERN=ヨーロッパ合同原子核研究機関の巨大な「加速器」という実験装置で実在が証明された。
宇宙はとにかく物凄いエネルギーが飛び交う時空の世界であり、“地球”は宇宙からみれば、極小の物体に過ぎない。
偶然中の偶然に恵まれて生命環境を与えられた地球上の人類は、その有難い地球を粗末にして、生態系を破壊し続けている。
巨大物体と衝突する前に、人類自ら地球を破壊する勢いだ。
また、その地球上では、人間は慾の塊になって、物を奪い合い、殺し合い、環境を破壊し続けている。
身近な例でいえば、宇宙に浮かぶちっぽけな地球で、その地球の皮である土地を自分の所有物と言い張り、国家は縄張り争いで領土・領海を奪い合う。
なんという愚かなことか。
要するに、地球上のものは、すべて人類の共有物である。
原始共産制社会に戻れ!と言いたい。
こんなことを書いているうちに、「ちょっと待てよ」、以前に同様のことを書いたような気がして、調べてみたら、やはり書いていた。
一年前に「愚か者、この一語に尽きる」で、全く同じようなことを書いていた。
有難い地球が誕生したのは46億年前。人類が生まれたのは300万年~500万年前。そして約一万年前に、やっと人間の歴史が始まった。
こうして考えると「人の一生」なんてものは「あっと言う間に終わってしまう」。(46億年を一年とすれば、人生は0.3秒だ)牛栏奶粉召回
先に「その地球上では、人間は慾の塊になって、物を奪い合い、殺し合い、環境を破壊し続けている。」と書いたが、とくにそれが大規模に行われ激烈になったのは産業革命が起こった約250年前からである。
中でもデータが示す通り、地球の環境破壊は産業革命以降に始まっている。
46億年かけて美しい自然をつくってきた地球を僅か250年で破壊しているのである。
産業革命とは、すなわち資本主義の勃興である。
資本主義は人間が本来的にもつ“慾”を顕在化させ、肥大化させ、先鋭化させた。しかも“慾”を際限のないものにしたのだ。
資本主義社会が続く限り、人間の強欲は止めようがない。
地球環境の破壊も資本主義社会が続く限り止めようがない。
僅か80年前後の「あっという間の人生」なのに、資本主義社会に生きる人間は、利己主義になり、私利私欲の魔界から脱出できないのだ。
先の「75年後に地球は消滅する」と言われても、「自分だけは生きたい、自分だけは別」と思うほど、人間とは愚か者である。
NHK宇宙チャンネルでは10万人「地球脱出計画」である。
まさに「自分だけは」という発想である。
また、巨大隕石が地球に衝突しない保証はない。もし日本に衝突すれば、原発の核が大爆発を起こすだろう。
そうなれば、原子爆弾1,100個分のプルトニュウムによって日本どころか地球全体が破壊されてしまう。
原発はその使用済み核廃棄物を造り続けているのだ。愚か者め!
地球はかけがえのない唯一無二の有難い自然である。
地球を脱出してなんとする?宇宙船に乗って何処へ行Pretty renew旺角
それでも自分だけは脱出したいの?
果たして、人間は地球消滅が、いざ現実のことと認識された場合、すなわち「死期が確定した場合」、人間は一体どんな行動をするだろうか。
全員で「神に祈る」か、あるいは「どうせ死ぬなら、生きている間に好き放題して死のう」とするのか。
現代は資本主義社会だ。その現代において「地球消滅」に直面したときは、多分後者になるだろう。
それが資本主義社会の人間の行動である。
資本主義とはそういう社会である。
「人は必ず死ぬ」、そして「地球は未来永劫に存在するものではなく、いずれは消滅する」のだ。
つまり「色即是空」だ。
人の命には限りがある。与えられた時間をどう生きるか。それが問題である。
人間は、「死ぬ」ことを大前提にして「考え」、「理想の社会」を築いていくこと、それが「人生」というものであろう。
理想を失った人間は、生ける屍である。
シュミレーション・ドラマとは言え、SF小説ではない。
「地球は巨大な質量をもつ物体に磁力で吸い寄せられて衝突して破滅する」という科学的知見は信憑性がある。
一昨日ノーベル物理学賞を受賞した物理学者(英エディンバラ大学名誉教授のピーター・ヒッグス博士とベルギーブリュッセル自由大学名誉教授のフランソワ・アングレール博士)は、素粒子の質量(重さ)の起源の解明につながる理論を提唱。
二人は、本来、質量をもたい素粒子が、質量を持つようになる未知の素粒子(ヒッグス粒子)の存在を理論的に予言していた。
そのことが、スイスのジュネーブ郊外にあるCERN=ヨーロッパ合同原子核研究機関の巨大な「加速器」という実験装置で実在が証明された。
宇宙はとにかく物凄いエネルギーが飛び交う時空の世界であり、“地球”は宇宙からみれば、極小の物体に過ぎない。
偶然中の偶然に恵まれて生命環境を与えられた地球上の人類は、その有難い地球を粗末にして、生態系を破壊し続けている。
巨大物体と衝突する前に、人類自ら地球を破壊する勢いだ。
また、その地球上では、人間は慾の塊になって、物を奪い合い、殺し合い、環境を破壊し続けている。
身近な例でいえば、宇宙に浮かぶちっぽけな地球で、その地球の皮である土地を自分の所有物と言い張り、国家は縄張り争いで領土・領海を奪い合う。
なんという愚かなことか。
要するに、地球上のものは、すべて人類の共有物である。
原始共産制社会に戻れ!と言いたい。
こんなことを書いているうちに、「ちょっと待てよ」、以前に同様のことを書いたような気がして、調べてみたら、やはり書いていた。
一年前に「愚か者、この一語に尽きる」で、全く同じようなことを書いていた。
有難い地球が誕生したのは46億年前。人類が生まれたのは300万年~500万年前。そして約一万年前に、やっと人間の歴史が始まった。
こうして考えると「人の一生」なんてものは「あっと言う間に終わってしまう」。(46億年を一年とすれば、人生は0.3秒だ)牛栏奶粉召回
先に「その地球上では、人間は慾の塊になって、物を奪い合い、殺し合い、環境を破壊し続けている。」と書いたが、とくにそれが大規模に行われ激烈になったのは産業革命が起こった約250年前からである。
中でもデータが示す通り、地球の環境破壊は産業革命以降に始まっている。
46億年かけて美しい自然をつくってきた地球を僅か250年で破壊しているのである。
産業革命とは、すなわち資本主義の勃興である。
資本主義は人間が本来的にもつ“慾”を顕在化させ、肥大化させ、先鋭化させた。しかも“慾”を際限のないものにしたのだ。
資本主義社会が続く限り、人間の強欲は止めようがない。
地球環境の破壊も資本主義社会が続く限り止めようがない。
僅か80年前後の「あっという間の人生」なのに、資本主義社会に生きる人間は、利己主義になり、私利私欲の魔界から脱出できないのだ。
先の「75年後に地球は消滅する」と言われても、「自分だけは生きたい、自分だけは別」と思うほど、人間とは愚か者である。
NHK宇宙チャンネルでは10万人「地球脱出計画」である。
まさに「自分だけは」という発想である。
また、巨大隕石が地球に衝突しない保証はない。もし日本に衝突すれば、原発の核が大爆発を起こすだろう。
そうなれば、原子爆弾1,100個分のプルトニュウムによって日本どころか地球全体が破壊されてしまう。
原発はその使用済み核廃棄物を造り続けているのだ。愚か者め!
地球はかけがえのない唯一無二の有難い自然である。
地球を脱出してなんとする?宇宙船に乗って何処へ行Pretty renew旺角
それでも自分だけは脱出したいの?
果たして、人間は地球消滅が、いざ現実のことと認識された場合、すなわち「死期が確定した場合」、人間は一体どんな行動をするだろうか。
全員で「神に祈る」か、あるいは「どうせ死ぬなら、生きている間に好き放題して死のう」とするのか。
現代は資本主義社会だ。その現代において「地球消滅」に直面したときは、多分後者になるだろう。
それが資本主義社会の人間の行動である。
資本主義とはそういう社会である。
「人は必ず死ぬ」、そして「地球は未来永劫に存在するものではなく、いずれは消滅する」のだ。
つまり「色即是空」だ。
人の命には限りがある。与えられた時間をどう生きるか。それが問題である。
人間は、「死ぬ」ことを大前提にして「考え」、「理想の社会」を築いていくこと、それが「人生」というものであろう。
理想を失った人間は、生ける屍である。
2013年08月15日
様々です
師走の語源
「師走」の語源は色々あって
普段落ち着いている師(先生)までも
忙しく走り回るから、という説や
昔は12月もお盆のようにご先祖様を弔っていたので
お坊さんが忙しく走り回ったのが語源という説など
様々です。
さて、そんな忙しい年末ですが
最近ぐっと気温が下がってきましたね
お鍋など
あたたかいものが美味しくなる季節に突入
先日平尾CCレストランでお友だちが食べた
味噌煮込みうどんも
あったかくて美味でした