2013年12月30日
とは言え
俳人・小林一茶の句には、正月を詠んだ句が多い。
中でも、よく知られているもので言えば、
「めでたさも 中くらいなり おらが春」
「あっさりと 春は来にけり 浅黄空」
など、一茶の卜維廉中學、ささやかな人生観を投影した句がすぐに浮かぶ。
同じく正月を詠んだ句に、
「春立や 菰(こも)もかぶらず 五十年」というのがある。
この句の意味を簡単に紹介すると、
「この歳まで乞食(=菰かぶり) に身をやつす事もなく、五十歳の正月を迎えたなぁ」
というところだろうか。
やはり、一茶らしい小市民的な香りが漂っている。
思えば、元旦という日は天文学上の特別な日ではない。
日付の面で一月一日というだけで、
他の日と変わりのない日と言ってもいい。
だけども、正月の朝を迎えると、何か空気まで
昨日と変わっている気分になる。
とは言え、誰もが感じるところだが、
だんだん正月らしさが薄れていっているように思える。
しかし、よくよく観察してみると如新nuskin產品、
それ以上に、本当に薄れていっているのは正月そのものではなく、
それを前にした大晦日の有り様かも知れない。
井原西鶴は、庶民の大晦日にこそ、面白みがあるとして、
『世間胸算用(せけんむねさんよう)』を描いてみせた。
江戸時代、大晦日(みそか=月末)は、一年分のツケ払いの決算の日となる。
そのため、貸し手にとっては取り立てなければならない重要な日。
借り手にとっては、何とか逃れようとする一日。
「てんやわんや」の人間模様が展開されるのが大晦日だった。
現代の大晦日といえば、たいてい、普段より増して賑やかなテレビ番組が続く。
そして、夕方頃より世界タイトルマッチや紅白歌合戦など、ますます賑々しい。
と、急に場面が変わるnu skin如新。
映し出されるのは、知恩院『除夜の鐘』。
(この落差が、「妙」かも知れない。)
そして、新年を迎える事になる。
今日は、おそらく仕事納め。
いよいよ、お正月行事のモード開幕といったところだろう。
中でも、よく知られているもので言えば、
「めでたさも 中くらいなり おらが春」
「あっさりと 春は来にけり 浅黄空」
など、一茶の卜維廉中學、ささやかな人生観を投影した句がすぐに浮かぶ。
同じく正月を詠んだ句に、
「春立や 菰(こも)もかぶらず 五十年」というのがある。
この句の意味を簡単に紹介すると、
「この歳まで乞食(=菰かぶり) に身をやつす事もなく、五十歳の正月を迎えたなぁ」
というところだろうか。
やはり、一茶らしい小市民的な香りが漂っている。
思えば、元旦という日は天文学上の特別な日ではない。
日付の面で一月一日というだけで、
他の日と変わりのない日と言ってもいい。
だけども、正月の朝を迎えると、何か空気まで
昨日と変わっている気分になる。
とは言え、誰もが感じるところだが、
だんだん正月らしさが薄れていっているように思える。
しかし、よくよく観察してみると如新nuskin產品、
それ以上に、本当に薄れていっているのは正月そのものではなく、
それを前にした大晦日の有り様かも知れない。
井原西鶴は、庶民の大晦日にこそ、面白みがあるとして、
『世間胸算用(せけんむねさんよう)』を描いてみせた。
江戸時代、大晦日(みそか=月末)は、一年分のツケ払いの決算の日となる。
そのため、貸し手にとっては取り立てなければならない重要な日。
借り手にとっては、何とか逃れようとする一日。
「てんやわんや」の人間模様が展開されるのが大晦日だった。
現代の大晦日といえば、たいてい、普段より増して賑やかなテレビ番組が続く。
そして、夕方頃より世界タイトルマッチや紅白歌合戦など、ますます賑々しい。
と、急に場面が変わるnu skin如新。
映し出されるのは、知恩院『除夜の鐘』。
(この落差が、「妙」かも知れない。)
そして、新年を迎える事になる。
今日は、おそらく仕事納め。
いよいよ、お正月行事のモード開幕といったところだろう。
2013年12月17日
ちなみに
寒い日が続く。
これから、ますます寒くなっていくようだ。
と、ブログを書くにも、寒いせいか、熱チャージができない。
とりあえず、お腹に熱いものを入れて(あ、春雨カップスープです)、さて、無理やりウォーミングアップ。
ここのところ、ブログ村エッセー、ちょっと順序が入れ替わっている。
わたしは、不思議なことに中風、ブロガーの皆さんを応援している。
ちなみに、
今日のブログ記事内容は、自分のためだけに書いた、自分自身の考えをまとめるためのものなので、
ここで、Uターンしてください。
駆け引き無く、本心です。
・・・
それはそうと・・・
急激に寒くなったので、水道管が凍って破裂してはいけないから、即、対応を!と実家の母からの依頼、要請あり。
県をまたいで、高速道路を乗り継いで、そこそこの時間がかかる、
実家まで車でえんやこら、えっさっさーと駆けつける。
運転は、娘婿。
孫、娘、ついでに夫も乗って、母の入院先へのお見舞いも兼ねて、遠路はるばる大移動。
実家の屋外に設置してある水道栓に、所定の袋をかぶせて、ひとつひとつ丁寧に紐で縛っていく。
所定の袋には、それぞれ個々に、「どこどこの○○の横の、なになにの水道栓」と
太く大きくマジックインクで書かれた封筒が紐で、くくられている。
所定の各々の袋は、これまた、各々の所定の場所に保存されている。
宝探しゲームのように、その書かれた指示どおりの場所に行って、所定の水道栓にそれらの袋をかぶせて固定する。
その間、病室から、母からの指令の電話がじゃんじゃん入る。
補足説明が、細かく続く。
まるで、徳田虎雄氏のごとく。
人口わずか、田舎なので、なにしろ、だだっ広い。
ちょっと水道管をどうのこうの、という作業でも、近所に住んでいれば、ちょちょいのちょい、だが、
遠くからは、この度は、お見舞いのついでであったから、どうってことはなかったものの、今後が大変だ。
毎年、母がやっていることで、任せっぱなしだったが、
予期せぬ入院というアクシデントがあると、対応できないことが出てくる。
母は高齢につき、これから、いろんなことが十分予測できるので、
寒くなる前に、やっておかなければいけない雪纖瘦。
娘、曰く。
「行くだけで1日仕事やね」
ま、そういうこと。
わたしは、なぜか、この手間のかかる無用の長物である「実家」が好きなのだ。
手間だけでなく、お金もかかる。
おそらく、わたしひとりの力では、とうてい維持できないだろう。
この実家は、人里離れていて、交通の便は、非常に悪く、資産価値もなく、家屋は古く修理維持費がかかり、
いいところは、まるでない。
今は、母がどうにか手間隙かけて維持しているが、入院したり、体が動かなくなったりすると、
どうしようもない。
母は最近「高齢で危ないから運転禁止」と我々に言われて、いやいやながら免許を返上したので、
それまでは自ら車を運転して行っていたが、この家に行く手段を絶たれ、不便極まりない。
誰の得にもならない、誰も喜ばない、なんのプラスにもならない、労力とお金ばかりかかる、
こんな実家に、なぜ、わたしは、愛情を注ぐのか?
しかも、遠方に住むわたしは、すぐに飛んで行って、スピーディな対応や処置ができるわけでもないのに。
自分で運転して、高速道路をぴゅっとぶっ飛ばして行くのならまだしも、
いまだに高速道路の乗り換えがわかっていない、
誰かに運転してもらって、行っている、自分自身がお荷物のような人間である。
(一応は、運転できるんだけど、・・・運転、その他が、ひどい・・・)
いずれ、わたしの希望通りにはいかなくなる日が来るだろう。
いくら愛着があっても、現実的にできることと、できないことがある。
少しずつ、荒れ果て朽ち果てて、草ぼうぼう、廃屋になっていくのを見守るしかないのか。
わたしが出来る間は、出来る範囲内で、維持に協力したいと思っている。
そのためには、若い世代の力も借りたいが、
彼らにとって、なんの価値もないものを、無理やり片棒を担がせるのも、忍びない。
が、わたしは、モノの継承は、文化の継承でもあると思っている。
不必要なモノばかりに囲まれて自分の家に暮らしているわたしを見て、子供たちは、批判的であるが、
それはあくまでの、わたしの今の生活。デイリー・ライフ。
自分自身も、誉めたものではないと自覚しているし、できるものなら断捨離したいし、
今、好き勝手している私の家を、べつに継承する必要などまるでなく、
むしろ、反面教師としてのタタキ台でもなんでもいい。
しかし、実家は別である。
これと同じパターンが、夫の実家にも言える。
こんなに複数の、手間隙のかかる、大きな無用の長物を抱えて、どうするの?
夫の実家は、息子に託す曾璧山中學。
(息子は、あと50年したら帰ってくるそうな。気の長い話だ。
わたしは天国か、地獄、草葉の陰から、見守っていることだろう)
バトンタッチのバトンが、うまく手渡らなくて、手から零れ落ちたときに、家は消滅することだろう。
父や母が、なによりも愛して、大事にしていた、イエ。
そして、義父や義母、その先代たち、親戚たちの、命ともいえる?イエ。
「時代錯誤」とわたしは全面的に否定的だったが、いま、この年齢になって、少し見直しの時期に入っている。
イエ制度そのものは、核家族になり、時代の流れに抗うことはできない。
戦後、民法も改定され、いまや婚外子も財産権が認められる時代。
明らかに時代と逆行した、意識の芽生えである。
が、違う形で、生きてきた証しのようなものを継承できればいいなあと、考える。
それが、ハードとしての「家」だとしたら、反論も大きいだろう。
まったく意味がない、と。
「家」は、生きた証しがいくつかあるうちの、ひとつの大きな柱となるツールである。
家を映像や画像にデータ化して、心に保存するという方法もある。
家は、究極の断捨離・対象物かも知れない。
家も、保存できればいい。
しかし、なにも手をつくさなければ、人の棲まない家は傷んでくる。
稀有な歴史的建造物でもない限り、永久保存はありえない。
わたしが、いくら望んでも、できないものは、できない。
そういうことだ。
泣く泣く断捨離の、その日が来るまで、
思い残すことなく、悔いなく、一生懸命、無用の長物に関わっていきたいと思う。
これから、ますます寒くなっていくようだ。
と、ブログを書くにも、寒いせいか、熱チャージができない。
とりあえず、お腹に熱いものを入れて(あ、春雨カップスープです)、さて、無理やりウォーミングアップ。
ここのところ、ブログ村エッセー、ちょっと順序が入れ替わっている。
わたしは、不思議なことに中風、ブロガーの皆さんを応援している。
ちなみに、
今日のブログ記事内容は、自分のためだけに書いた、自分自身の考えをまとめるためのものなので、
ここで、Uターンしてください。
駆け引き無く、本心です。
・・・
それはそうと・・・
急激に寒くなったので、水道管が凍って破裂してはいけないから、即、対応を!と実家の母からの依頼、要請あり。
県をまたいで、高速道路を乗り継いで、そこそこの時間がかかる、
実家まで車でえんやこら、えっさっさーと駆けつける。
運転は、娘婿。
孫、娘、ついでに夫も乗って、母の入院先へのお見舞いも兼ねて、遠路はるばる大移動。
実家の屋外に設置してある水道栓に、所定の袋をかぶせて、ひとつひとつ丁寧に紐で縛っていく。
所定の袋には、それぞれ個々に、「どこどこの○○の横の、なになにの水道栓」と
太く大きくマジックインクで書かれた封筒が紐で、くくられている。
所定の各々の袋は、これまた、各々の所定の場所に保存されている。
宝探しゲームのように、その書かれた指示どおりの場所に行って、所定の水道栓にそれらの袋をかぶせて固定する。
その間、病室から、母からの指令の電話がじゃんじゃん入る。
補足説明が、細かく続く。
まるで、徳田虎雄氏のごとく。
人口わずか、田舎なので、なにしろ、だだっ広い。
ちょっと水道管をどうのこうの、という作業でも、近所に住んでいれば、ちょちょいのちょい、だが、
遠くからは、この度は、お見舞いのついでであったから、どうってことはなかったものの、今後が大変だ。
毎年、母がやっていることで、任せっぱなしだったが、
予期せぬ入院というアクシデントがあると、対応できないことが出てくる。
母は高齢につき、これから、いろんなことが十分予測できるので、
寒くなる前に、やっておかなければいけない雪纖瘦。
娘、曰く。
「行くだけで1日仕事やね」
ま、そういうこと。
わたしは、なぜか、この手間のかかる無用の長物である「実家」が好きなのだ。
手間だけでなく、お金もかかる。
おそらく、わたしひとりの力では、とうてい維持できないだろう。
この実家は、人里離れていて、交通の便は、非常に悪く、資産価値もなく、家屋は古く修理維持費がかかり、
いいところは、まるでない。
今は、母がどうにか手間隙かけて維持しているが、入院したり、体が動かなくなったりすると、
どうしようもない。
母は最近「高齢で危ないから運転禁止」と我々に言われて、いやいやながら免許を返上したので、
それまでは自ら車を運転して行っていたが、この家に行く手段を絶たれ、不便極まりない。
誰の得にもならない、誰も喜ばない、なんのプラスにもならない、労力とお金ばかりかかる、
こんな実家に、なぜ、わたしは、愛情を注ぐのか?
しかも、遠方に住むわたしは、すぐに飛んで行って、スピーディな対応や処置ができるわけでもないのに。
自分で運転して、高速道路をぴゅっとぶっ飛ばして行くのならまだしも、
いまだに高速道路の乗り換えがわかっていない、
誰かに運転してもらって、行っている、自分自身がお荷物のような人間である。
(一応は、運転できるんだけど、・・・運転、その他が、ひどい・・・)
いずれ、わたしの希望通りにはいかなくなる日が来るだろう。
いくら愛着があっても、現実的にできることと、できないことがある。
少しずつ、荒れ果て朽ち果てて、草ぼうぼう、廃屋になっていくのを見守るしかないのか。
わたしが出来る間は、出来る範囲内で、維持に協力したいと思っている。
そのためには、若い世代の力も借りたいが、
彼らにとって、なんの価値もないものを、無理やり片棒を担がせるのも、忍びない。
が、わたしは、モノの継承は、文化の継承でもあると思っている。
不必要なモノばかりに囲まれて自分の家に暮らしているわたしを見て、子供たちは、批判的であるが、
それはあくまでの、わたしの今の生活。デイリー・ライフ。
自分自身も、誉めたものではないと自覚しているし、できるものなら断捨離したいし、
今、好き勝手している私の家を、べつに継承する必要などまるでなく、
むしろ、反面教師としてのタタキ台でもなんでもいい。
しかし、実家は別である。
これと同じパターンが、夫の実家にも言える。
こんなに複数の、手間隙のかかる、大きな無用の長物を抱えて、どうするの?
夫の実家は、息子に託す曾璧山中學。
(息子は、あと50年したら帰ってくるそうな。気の長い話だ。
わたしは天国か、地獄、草葉の陰から、見守っていることだろう)
バトンタッチのバトンが、うまく手渡らなくて、手から零れ落ちたときに、家は消滅することだろう。
父や母が、なによりも愛して、大事にしていた、イエ。
そして、義父や義母、その先代たち、親戚たちの、命ともいえる?イエ。
「時代錯誤」とわたしは全面的に否定的だったが、いま、この年齢になって、少し見直しの時期に入っている。
イエ制度そのものは、核家族になり、時代の流れに抗うことはできない。
戦後、民法も改定され、いまや婚外子も財産権が認められる時代。
明らかに時代と逆行した、意識の芽生えである。
が、違う形で、生きてきた証しのようなものを継承できればいいなあと、考える。
それが、ハードとしての「家」だとしたら、反論も大きいだろう。
まったく意味がない、と。
「家」は、生きた証しがいくつかあるうちの、ひとつの大きな柱となるツールである。
家を映像や画像にデータ化して、心に保存するという方法もある。
家は、究極の断捨離・対象物かも知れない。
家も、保存できればいい。
しかし、なにも手をつくさなければ、人の棲まない家は傷んでくる。
稀有な歴史的建造物でもない限り、永久保存はありえない。
わたしが、いくら望んでも、できないものは、できない。
そういうことだ。
泣く泣く断捨離の、その日が来るまで、
思い残すことなく、悔いなく、一生懸命、無用の長物に関わっていきたいと思う。
2013年12月12日
わたしは
ある人と、お互いに年齢の当てっこをした。
前々から知っている人。
「さあ、あなたから」
「いえ、あなたから」
お互い防刮花保護膜、先に相手から言わせようとする。
しびれをきらした相手は、先にわたしの年齢を言った。
「○○、+1?」
ぴたりの年齢と、もうひとつ上の年齢を発した。
(例→32歳の人に、「32,3歳?」というようなパターン)
わたしは、う、となった。
ぴたり、ではあるが、2歳にまたがる、もうひとつの年齢がひとつ上である。
ここは、ズバリ賞ではあっても、追加部分は、ひとつ下あたりを言ってほしかった。
(例→32歳の人に、「31,2歳?」と)
女性は、なんで、こう見かけ年齢にこだわるのか。
わたしはフリーズして、しばし蘇ることができなかった。
で、気を取り直して、今度は、わたしの番。
(相手の年齢推定を)言っても、言わなくてもいい、という流れにもなってきた。
でも、勇気を出して(どんな勇気?)推定数字を口から放った。
「○○歳?!」
相手は、「いいとこらへんを、言うねえ」
と、ぴったり、どんぴしゃりだったかのようなリアクションを示した。
が、本当にその年齢なのか、近いのか、遠いのか、よくわからない。
もし、もっと実際は若かったら、文句がとっさに口から出るだろう。
あるいは、がっかり、しょんぼり、残念感が漂うだろう。
わたしは、考えに考えた末、じつは、実際に予想している年齢より、6歳も下を言ったのだ。
すごいリップサービスである。
いつも思っている年齢をそのまま口にしてもよかったのだが、いざ、その場になると、
うーーーん・・・失礼だったらどうしよう・・・と、考えて、
考えられる年齢で最も若い年齢を無理やり、なかば、現実とかけ離れていてもいいや、と冒険的に言った。
(自分が傷ついた後だったので、相手にもそんな思いをさせたくないという気持ちから)
相手に気を悪くさせるぐらいなら、実際の年齢がわからないほうが、マシかと思い、
ピンポイントで実年齢を知る作業をOtterBox防水手機保護殼、あきらめた。
なのに、相手のわたしに対する推定年齢は、ぴたりとは言うものの、1歳上が、くっついている。
気のきかん、やっちゃ。
・・・・
実際のところ、しばらく、じわーっと落ち込んだ。
年齢どおりに見えるということは、悪いことではないが、よいことでもない。
少し前は、若く見られたのに、大ショックである。
若く見られたからといって、どうなるわけでもないのだが。
10歳以上若く見える人も、何十歳も若く見える魅力的な美魔女もいる。
あーあ・・・
たったひとつの、遊びのコトバ(数字)で、こうもがっかりするなんて、
わたしは、平和な次元にいるのだと実感した。
(それより、脳年齢のほうが、気になる)
しかし、・・・
ここでまだ収まらない、もやもやキモチを納得させるため、へ理屈を考え出す。
若く見えて、いまさらながら、なにが得?
なにかいいこと、ある?
ミスユニバースには、すでに年齢アウト。未婚じゃないと、ミスじゃないし。
女優になるには、演技力がない。
(そういう問題じゃないだろう・・・
あ、これ、ジョークですから。
と、いちいち説明するのが面倒だが、
とりあえす、蝶ブログにお越しになって日が浅い方もおられるかも知れないので・・・保身)
若々しい魅力で、プロポーズしてもらうには、あれこれ身辺整理の手続きが、めんどくさい。
が、石油王の第5夫人ぐらいなら離婚して再婚してもいいかも?
贅沢に飽き飽きして別の価値観を求めて、若くも美しくもない、なにもない、
たんなる無益なもの、意味のないものに突然、化学変化的に、興味をもたれるかも?
いや、それも、めんどくさい。
住所を移すどころか、国籍、言語、宗教の問題は、まったくクリアーできない。
しかも、アノあたりの地域は牛欄牌奶粉、安住の地とは思えない。
では・・・
アンダーグラウンド、人妻を暗闇に誘い込もうとする人・・・これは、NG.お引取り願います。
じゃあ・・・
「美人で若く見える」と近所で評判になる
・・・で、それが?
美魔女の年齢あてテレビにでも出て、視聴者を驚かせる?
・・・で、それが?
負け惜しみ感、たっぷり。
ふん!若く見えるからって、なにさ!の、もっと強烈な説得、納得理由コンテンツはないのか?
自分がうれしい。
自分が鼻高々になれる。
自分が楽しい。自信がもてる。
そんなかんじか。
いまひとつ、決め手、インパクトに欠ける。
・・・
ほんとうは、もっといろいろ考えて、ここにオンパレ羅列したいのだが、めんどうになった。
なければないで、努力目標を掲げるなり、なんなりとあるのだろうけれど。
脳ミソ追求心が、へこたれた。若くないってことだ。
負け~て悔しい花いちもんめ。
ということで、「見かけ年齢部門」に関しては、あまり楽しくなれなかったが、
年より老けて見えたのは、ほんの1歳だし、
身体も健康、生きていくには、なんの差し障りもない、
こんなことをぐだぐだブログに綴ることの幸せでもかみ締めて、
負け犬は、無理やり納得することにしますか・・・。
(今日は、かなり、消化不良、納得できていない感が、ありあり・・・)
もやもやのまま、終了しかけたが・・・
ここで、閃いた。
若く見えなくて、なにが悪い!と、開き直る。
不自然なほどに若く見えるのは、美容整形しているに違いない、と「見かけの若さ」疑惑を持ち、全面否定する。
駐日大使のケネディ女史のように、美容整形外科名医ルートや経済力はあっても(憶測)、
美形なのに、あえてシワ取りしない女性も、カッコいい。
晩年のオードリー・ヘップバーンも、だ。
マンデラさんを見よ。あの柔和な顔。年齢がどうのこうのという域を超えている。
若さにしがみつくのは、老醜の表れだ。
清清しい老いが、あってもいい。
・・・
潔くない「うじうじ」から、潔い「逆切れ」と転じると、
けっこう、くさくさ空気が抜けて、すっきり、いいかも・・・である。
逆切れ・開き直りは、自分を救う。
自分が自分を救う。
360度回転して、元の位置。
お疲れ様でした。
前々から知っている人。
「さあ、あなたから」
「いえ、あなたから」
お互い防刮花保護膜、先に相手から言わせようとする。
しびれをきらした相手は、先にわたしの年齢を言った。
「○○、+1?」
ぴたりの年齢と、もうひとつ上の年齢を発した。
(例→32歳の人に、「32,3歳?」というようなパターン)
わたしは、う、となった。
ぴたり、ではあるが、2歳にまたがる、もうひとつの年齢がひとつ上である。
ここは、ズバリ賞ではあっても、追加部分は、ひとつ下あたりを言ってほしかった。
(例→32歳の人に、「31,2歳?」と)
女性は、なんで、こう見かけ年齢にこだわるのか。
わたしはフリーズして、しばし蘇ることができなかった。
で、気を取り直して、今度は、わたしの番。
(相手の年齢推定を)言っても、言わなくてもいい、という流れにもなってきた。
でも、勇気を出して(どんな勇気?)推定数字を口から放った。
「○○歳?!」
相手は、「いいとこらへんを、言うねえ」
と、ぴったり、どんぴしゃりだったかのようなリアクションを示した。
が、本当にその年齢なのか、近いのか、遠いのか、よくわからない。
もし、もっと実際は若かったら、文句がとっさに口から出るだろう。
あるいは、がっかり、しょんぼり、残念感が漂うだろう。
わたしは、考えに考えた末、じつは、実際に予想している年齢より、6歳も下を言ったのだ。
すごいリップサービスである。
いつも思っている年齢をそのまま口にしてもよかったのだが、いざ、その場になると、
うーーーん・・・失礼だったらどうしよう・・・と、考えて、
考えられる年齢で最も若い年齢を無理やり、なかば、現実とかけ離れていてもいいや、と冒険的に言った。
(自分が傷ついた後だったので、相手にもそんな思いをさせたくないという気持ちから)
相手に気を悪くさせるぐらいなら、実際の年齢がわからないほうが、マシかと思い、
ピンポイントで実年齢を知る作業をOtterBox防水手機保護殼、あきらめた。
なのに、相手のわたしに対する推定年齢は、ぴたりとは言うものの、1歳上が、くっついている。
気のきかん、やっちゃ。
・・・・
実際のところ、しばらく、じわーっと落ち込んだ。
年齢どおりに見えるということは、悪いことではないが、よいことでもない。
少し前は、若く見られたのに、大ショックである。
若く見られたからといって、どうなるわけでもないのだが。
10歳以上若く見える人も、何十歳も若く見える魅力的な美魔女もいる。
あーあ・・・
たったひとつの、遊びのコトバ(数字)で、こうもがっかりするなんて、
わたしは、平和な次元にいるのだと実感した。
(それより、脳年齢のほうが、気になる)
しかし、・・・
ここでまだ収まらない、もやもやキモチを納得させるため、へ理屈を考え出す。
若く見えて、いまさらながら、なにが得?
なにかいいこと、ある?
ミスユニバースには、すでに年齢アウト。未婚じゃないと、ミスじゃないし。
女優になるには、演技力がない。
(そういう問題じゃないだろう・・・
あ、これ、ジョークですから。
と、いちいち説明するのが面倒だが、
とりあえす、蝶ブログにお越しになって日が浅い方もおられるかも知れないので・・・保身)
若々しい魅力で、プロポーズしてもらうには、あれこれ身辺整理の手続きが、めんどくさい。
が、石油王の第5夫人ぐらいなら離婚して再婚してもいいかも?
贅沢に飽き飽きして別の価値観を求めて、若くも美しくもない、なにもない、
たんなる無益なもの、意味のないものに突然、化学変化的に、興味をもたれるかも?
いや、それも、めんどくさい。
住所を移すどころか、国籍、言語、宗教の問題は、まったくクリアーできない。
しかも、アノあたりの地域は牛欄牌奶粉、安住の地とは思えない。
では・・・
アンダーグラウンド、人妻を暗闇に誘い込もうとする人・・・これは、NG.お引取り願います。
じゃあ・・・
「美人で若く見える」と近所で評判になる
・・・で、それが?
美魔女の年齢あてテレビにでも出て、視聴者を驚かせる?
・・・で、それが?
負け惜しみ感、たっぷり。
ふん!若く見えるからって、なにさ!の、もっと強烈な説得、納得理由コンテンツはないのか?
自分がうれしい。
自分が鼻高々になれる。
自分が楽しい。自信がもてる。
そんなかんじか。
いまひとつ、決め手、インパクトに欠ける。
・・・
ほんとうは、もっといろいろ考えて、ここにオンパレ羅列したいのだが、めんどうになった。
なければないで、努力目標を掲げるなり、なんなりとあるのだろうけれど。
脳ミソ追求心が、へこたれた。若くないってことだ。
負け~て悔しい花いちもんめ。
ということで、「見かけ年齢部門」に関しては、あまり楽しくなれなかったが、
年より老けて見えたのは、ほんの1歳だし、
身体も健康、生きていくには、なんの差し障りもない、
こんなことをぐだぐだブログに綴ることの幸せでもかみ締めて、
負け犬は、無理やり納得することにしますか・・・。
(今日は、かなり、消化不良、納得できていない感が、ありあり・・・)
もやもやのまま、終了しかけたが・・・
ここで、閃いた。
若く見えなくて、なにが悪い!と、開き直る。
不自然なほどに若く見えるのは、美容整形しているに違いない、と「見かけの若さ」疑惑を持ち、全面否定する。
駐日大使のケネディ女史のように、美容整形外科名医ルートや経済力はあっても(憶測)、
美形なのに、あえてシワ取りしない女性も、カッコいい。
晩年のオードリー・ヘップバーンも、だ。
マンデラさんを見よ。あの柔和な顔。年齢がどうのこうのという域を超えている。
若さにしがみつくのは、老醜の表れだ。
清清しい老いが、あってもいい。
・・・
潔くない「うじうじ」から、潔い「逆切れ」と転じると、
けっこう、くさくさ空気が抜けて、すっきり、いいかも・・・である。
逆切れ・開き直りは、自分を救う。
自分が自分を救う。
360度回転して、元の位置。
お疲れ様でした。
2013年12月03日
たしかに
喜劇の劇作家として知られるモリエールの話には、
『タルチュフ』や『スカパンの悪だくみ』など、
ダマしたりダマされる話が多い。
劇中で、ひと芝居うちOtterBox保護殼、
ダマそうとすることで物語が展開していく。
ところが、ウソがバレてしまい、結局は大失敗。
そこに笑いが生じるというもの。
モリエールと同時代の人物に、同じく劇作家のコルネイユがいるが、
彼の言葉に
「ウソをつくには、良い記憶力が必要になる」というのがある。
たしかに、一度ウソをつくと、
少なくとも、それをしっかり記憶しておかなければならない。
また、ウソというのはつけばつくほど、
ウソをつかねばならなくなる。
そして、ついたウソを全て記憶しておかないと結局はバレてしまう。
まさに、良い記憶力が必要になる。
ウソは悪いものか?と言えば、一概に悪いとも言えない。
承知でダマされたいと思う人もいる。
たとえば防水手機保護殼、
”ほら話の世界”なども、ウソの世界。
アメリカには、”ほら話(トール・テイルズ)”を語る伝統があったようだ。
西部あたりでは、人が集まっては、持ちネタを披露しあったようだ。
その幾つかを紹介すると、
「夕方、雪が降ってきたので、連れて来た馬を近くにあった棒にくくりつけていたんだ。
朝になったら馬が教会の塔にぶら下がっていた。
な~にね、昨日、馬をつないだ木は、教会の尖塔で、
次の日に雪が溶けて、馬だけが塔の上に残っていたんだ。」
また、
「あんまり高い木だったので、3人でなければ見上げられなかった。
一人が、下から見上げいって、二人目がそれを引き継いで見上げ、
三人目でやっとてっぺんが見えるほど高かった」
などOtterbox Commuter、
明らかにウソとわかる話。
楽しい気分にさせるウソ話には、記憶力など必要じゃない。
『タルチュフ』や『スカパンの悪だくみ』など、
ダマしたりダマされる話が多い。
劇中で、ひと芝居うちOtterBox保護殼、
ダマそうとすることで物語が展開していく。
ところが、ウソがバレてしまい、結局は大失敗。
そこに笑いが生じるというもの。
モリエールと同時代の人物に、同じく劇作家のコルネイユがいるが、
彼の言葉に
「ウソをつくには、良い記憶力が必要になる」というのがある。
たしかに、一度ウソをつくと、
少なくとも、それをしっかり記憶しておかなければならない。
また、ウソというのはつけばつくほど、
ウソをつかねばならなくなる。
そして、ついたウソを全て記憶しておかないと結局はバレてしまう。
まさに、良い記憶力が必要になる。
ウソは悪いものか?と言えば、一概に悪いとも言えない。
承知でダマされたいと思う人もいる。
たとえば防水手機保護殼、
”ほら話の世界”なども、ウソの世界。
アメリカには、”ほら話(トール・テイルズ)”を語る伝統があったようだ。
西部あたりでは、人が集まっては、持ちネタを披露しあったようだ。
その幾つかを紹介すると、
「夕方、雪が降ってきたので、連れて来た馬を近くにあった棒にくくりつけていたんだ。
朝になったら馬が教会の塔にぶら下がっていた。
な~にね、昨日、馬をつないだ木は、教会の尖塔で、
次の日に雪が溶けて、馬だけが塔の上に残っていたんだ。」
また、
「あんまり高い木だったので、3人でなければ見上げられなかった。
一人が、下から見上げいって、二人目がそれを引き継いで見上げ、
三人目でやっとてっぺんが見えるほど高かった」
などOtterbox Commuter、
明らかにウソとわかる話。
楽しい気分にさせるウソ話には、記憶力など必要じゃない。